耳なし芳一 SOUND
【解 説】 三味線音楽は浄瑠璃物、歌物等、古典演奏では、主にユニゾン形式(同じ事を複数で演奏する)の演奏です。そして唄(浄瑠璃)と三味線は各々専門にパートが別れて演奏されて来ました(地唄・三曲等例外も有りますが)。 そして、難解な歌詞は、深い意味が有る反面、現在ではそれを理解するのに図書館へでも通って調べて、やっと判明するような状態になっております。 初めて聞いた人にして見れば、それは聞きにくくて、ただただ訳が解らず、眠いかつまらないかになってしまいます。 「三味線音楽を広く理解してもらう」という観点から見ますと大きな障壁となってきます。 音楽は聞く人の感性にその多くを委ねている訳でも有るのですが、意味不明部分が多いとその感性の発露も半減してしまいます。 作曲者、演奏者、そして鑑賞者が、そのイマジネーションの世界を共有出来るような手段の一つとして模索した結果、『朗読三絃』という手法を採ることに致しました。 より多くの人が共通して曲のイメージを掴みやすく、又、その世界を楽しめれば…そうした事が、ひいては古典継承の為の道しるべにも繋がれば…との思いで作曲しました。 更に、三味線音楽の継承(自身は長唄)という問題に多大の危機感を抱いている一人として、前述の古典の因習の中に閉じこもった方法にとらわれず、一挺の三味線・ナレーションと一挺の皷で表現する形を採りました。 |
【内 容】(この文字色が歌詞)
『耳なし芳一』の物語は小泉八雲の原作「耳なし芳一」で広く知られた物語です。 芳一の弾く琵琶で心を休める平家の亡霊から芳市を守るため、芳一の身体に経文(小泉八雲原作では般若心経)を書いて祈り、亡霊を退けますが、耳の部分に書き忘れた為、耳だけ盗られてしまう、という内容です。 【曲】 「住職の思い出の語り」という想定でナレーションが入ります。この部分は、三味線の手付けがされておりますが、風の効果音を使用出来る会場での演奏の場合はそれを用います。 …台詞…あれは 平家が 壇の浦の戦に
敗れしより 間もなき頃じゃった わしが寺の芳一が 夜中に何処ともなく出かけ 明け方帰り来たれば 頬はこけ 気もうつろな有様 わしは 心休まらざれ
ば ある夜 そっと 芳市をつけてみた なんと 風の吹きすさぶ墓場に唯一人 取りつかれたように 琵琶を弾じているではないか 「あやしやな…」以下は、波間に見えた所が実は荒れた墓地で、その墓地のざわつきも妙に静まり返ります。 〓あやしやな 波間にまごふ墓なれば 風も止みて静 まりけり …霊の出… この部分は、荒れた墓地に平家武者の一群が何れともなく霊界より迷い出ずる様。そして芳一の琵琶に聞き惚れます。作曲上、この曲の中で唯一唄の節の付いている部分です。 〓西国にて滅びし平家の公達 恨みを成すも 今更に 涙をふりて 聞き入りぬ …霊界の合方… 「霊界の合方では、そうした霊界の切なさ、やり切れなさと、芳一の琵琶とが絡み合って行きます。 〓わしは 怨霊の手まねぎを打ち切らんと 芳一に経文を書き巡らし 一心に祈り続けた 〓ナム アム ダブ 謹請東方清龍清浄 謹請西方白体白龍 請中央黄体黄龍(きんぜいとうぼうしょうりゅうしょうじょう きんぜいさいほうびゃくたいびゃくりゅう きんぜいちゅうおうおうたいおうりゅう)ナムアム ダブ …祈闘の合方…原作では、住職は不在となりますが、ここでは住職の読む経文と霊との戦いとなります。 「謹請…」以下は、東西だけでなく、東西南北と中央が正式です。「悪魔降伏の祈り」と言い、四つの方角と中央に五大明王を配して御名を唱えて祈ります。 龍王の名を呼び出して、世界中に有る無数の龍王に対して「哀愍納受」(あいみんのうじゅ)即ち、我が祈りを哀れみ受けさせ賜えと祈ります。そして「祈闘の合方」で霊との壮絶な戦いが繰り広げられます。 押しつ押されつのうち、最後に経文の力が一気に押し切ります。そして、芳一は耳にだけ経文を書き忘れた為に…で、 〓芳一は助かった 命だけは という内容で、終章に余韻を持たせて有ります。 |
ところで、
この曲を作曲する際に「ナム
アム ダブ」 以下の部分で大変苦労致しまして、六月中過ぎ頃の事でした。
それまでは比較的スムースに運んでおりましたが、「ナム…」の所から一向に進まなくなりまして、 ちょと暑い日でしたので、夜中の二時頃ブラリ表を一回りしようと散歩に出ました。すぐ裏の路地を突っ切り、ほんの二軒先の家にさしかかりました時に風鈴 (のような)音が、その家の軒先辺りから聞こえてきました。ふと、立ち止まって聞きました。 「リーン リーン リンリーン」。「………」。『あっ!これだ!』。それから歩調を「リーン … …」に合わせて『チーン チーン … …』と、ぐるーり歩きながら「祈闘の合方」へと発展して作曲しました。 ところが、驚いたことに明くる日になりまして表に出てみますと、何と、そこの家がお葬式だったのです 昭和五十五年六月二十二日完。深堀 篤 作詞。 杵屋徳衛 作曲。梅屋勝六郎 作調。 昭和五十五年グループ宴公演[怨霊―その世界―] で初演されました。 |